第九交響曲
希奈子がはじめてライラックと出会った場所。
水晶林の広場に希奈子はぽつんと立っていた。
相変わらず水晶はきらきらと赤く燃えている。
希奈子は走りだした。大きな木のカブを目指して。
木のカブの上においてあるピアノを目指して。
きっと、そこにライラックがいる。希奈子は走った。
ピアノの音が聞こえてくる。フォールドが水晶でつくったピアノ。
ひいているのは・・・
「ライラック!」
ライラックがピアノをひく手をとめるとふりむいた。
一瞬、水晶林の広場が静まりかえる。
「おまえか・・・」
希奈子に気づいたライラックは木のカブからひょいと飛びおりると、
こちらにむかって歩いてきた。
「どうした?」
はあはあと肩で息をする希奈子をライラックがふしぎそうに見る。
希奈子はライラックを見つめるばかりでなにもこたえない。
「なにかあったのか?」
もういちどライラックが聞くと、希奈子がちいさな口をかすかに動かした。
「絵・・」
「絵?」
「コンクールに・・・」
「絵のコンクールか?」
とぎれとぎれに聞こえる奈子の言葉を
ライラックが拾いあげるようにしてくりかえし言った。
「おちちゃったの・・」
そう言うと、希奈子の目から大きななみだがぼろぼろとこぼれおちた。
「アフジスカの・・絵・・・」
ライラックは希奈子の言葉にだまって耳をかたむけている。
「描いたのに・・おちちゃった・・・」
ひっくひっくと、しゃくりあげながら希奈子は言った。
「モモ姫も、フォールドさんも、ハルさんも、
ユリエさんも・・ライラックだって描いたのに・・」
希奈子の声がだんだん大きくなっていった。
ライラックはしゃがみこむと希奈子の頭に前足をそっとのせた。
「オレは、おまえがアフジスカの絵を描いてくれたことがうれしいよ。」
希奈子は一瞬、泣くのをやめるとライラックを見つめた。
「ありがとう。希奈子。」
ライラックがはじめて希奈子の名前をよんでくれた。
希奈子はせき止められていた川の水がどっと流れ出すように、
大きな声で泣いた。
悲しくて。でも、うれしくて。
だから希奈子は大きな声で泣いた。
「そうだ。おまえに聞かせたい曲があるんだ。」
そう言うと、ライラックがまた木のカブの上に登った。
ピアノのイスにすわりなおして両方の前足を鍵盤へ静かにのせる。
ぽろん・・と、ピアノが歌いだした。
希奈子がはじめて聞いた曲よりも、もっと熱く、さけぶようにピアノが歌う。
音にこもる熱は曲がすすむにつれて、どんどん激しくなっていった。
水晶がわれてしまうんじゃないかと思うくらい高らかに、
そして、情熱的うにライラックはピアノをひいた。
希奈子も泣くのをやめていつのまにかライラックのひくピアノに聞きいっている。
ライラックが歌う。ピアノとともに。
赤い水晶も、この頭上にひろがる青い空も、
希奈子をつつみこむすべてが歌う。
《ダイネ ツァオバー ビンテン ヴィーダー
(Deine Zauber binden wieder,)
ヴァス ディ モーデ シュトレング ゲタイルト
(Was die Mode streng geteilt;)
アレ メンシェン ヴェーアデン ブリューダー
(Alle Menschen warden Brüder,)
ヴォー ダイン ザンフター フリューゲル ヴァイルト
(Wo dein sanfter Flügel weilt.)》
希奈子の背中がぞくぞくっとざわめきたった。
体の内側からはだをつきやぶって感動が飛びだしてしまいそうだった。
「フリードリッヒ・シラー作詞。ベートーヴェン作曲。」
ピアノをひき終わったライラックがつぶやいた。
「ベートーヴェン?音楽室の肖像画の?」
「あの、気むずかしそうな顔したな。」
「今の曲、そのヒトがつくったの?」
「そうさ。交響曲第九番ニ短調、作品一二五《合唱》。
まあ、俗に第九≠ネんていわれてるな。」
「あ!わかった!年末になるとよく聞く曲ね!」
「それだ。」
冬休みに希奈子がテレビを見ているとよく流れてくる曲だ。
町を歩いていてもどこからか流れてくる軽やかな音色。
それが第九だと希奈子は知った。
―だから、どこかで聞いたことがあるって思ったのね。
うんうん。と、ひとりうなずく希奈子。
「ねえねえ。ライラック。
さっき歌っていたのはどこの言葉?もしかして、アフジスカ語?」
「アフジスカ語か・・。なかなかおもしろいことを言うな。」
「ちがうの?」
きょとんとする希奈子にライラックがこたえた。
「さっきも言ったように、この詩を書いたシラーはドイツ人なんだ。」
「ドイツ人!」
希奈子は頭の中で社会で少しだけ習った世界地図を思いえがいた。
「そう。だから、ドイツ語さ。」
「へぇ〜!」
―家に帰ったら世界地図でドイツを探してみよう!
希奈子にとって、ライラックから教えてもらうことはとても新鮮だった。
それに、とっても刺激的だった。
「じゃあ、じゃあ・・」
「まだ他になにかあるのか?」
ライラックがめんどうくさそうに希奈子に目をやる。
「歌詞の意味は?」
希奈子が聞いた瞬間、ライラックのヒゲがぴくりと動いた。
「意味・・ねぇ・・。」
「うん!」
「・・・」
ライラックは顔をそむけて希奈子を見ようとしない。
希奈子はそんなライラックの態度をふしぎに思い、
なんとかしてライラックと目を合わせようとした。
希奈子がライラックの顔をのぞきこめばライラックはプイとそっぽをむく。
「・・・」
「・・・」
しばらくふたりはだまりこんだ。
希奈子にはなんだかライラックがそわそわしているように見えた。
「わたしに聞かせたかった曲なんでしょ?」
「まあな。」
―まあなって、こたえになってない・・。
それでも希奈子はまたライラックに聞いた。
「ライラックのことだから、なにか理由があるんでしょ?」
「まあな。」
それでもライラックの返事はおなじだった。
さすがにしびれをきらした希奈子が
「まあな≠カゃ、こたえになってないじゃない!」
と怒った。すると、ライラックはライラックで
「そんなことはもういいだろ!」
と言いかえす。ふたりはむの字に口をとがらせるとにらみあった。
「とにかくだな。そのうちわかればいいんだ。」
「どうしてそのうち≠ネの?わたしは今知りたいのに!」
ライラックの目がぎろりと希奈子を見る。
希奈子はすこし肩をふるわせるとうつむいた。
そんな希奈子のようすを見たライラックはうしろ手で首根っこをさすりながら
「あ〜・・・、悪かった。」
と言うと、ため息をついた。
「まあ、その・・なんだ。そのうち、わかるときがくれば・・・。
だから、今すぐにじゃなくていいんだ。」
希奈子がライラックをじっと見つめる。
だけどライラックは希奈子と絶対に目を合わせようとしない。
それがなんだかおかしくって、希奈子は思わず笑ってしまった。
ライラックはむすっとしながらもその顔は楽しそうだった。
「東亭によってくか?」
「うん!モモ姫たちにも会いたいし・・。
わたし、まだむこうの世界でモモ姫に会ってないから。」
「むこうの世界?」
「わたしの住んでる世界ね。」
「あぁ。」
ライラックと希奈子は水晶林の道を歩きながらはなしている。
「学校の帰り道にね、ハス池があるんだけど、そこをお散歩してたのよ。」
「ふーん。」
「はじめて見たときは、すこし笑っちゃったけど・・。」
希奈子はハス池での《パグ》との出会いを思い出すと、くすっと笑った。
「モモ姫に伝えておいてやろうか?」
「だ・・だめ!絶対にだめ!モモ姫に怒られちゃうもん!」
希奈子があわてて言うと、ライラックはイヂワルく、にやっと笑った。
「おまえ、変わったな。」
ライラックのとつぜんの言葉に希奈子はびっくりしながらも聞きかえした。
「変わった?どこが?」
「今のモモ姫のはなしだってそうさ。
最初はおかしかったモモ姫の顔も、今はかわいく見えるんだろ?」
ライラックは雲離屋で希奈子がモモ姫をかわいいと言ったことを覚えていた。
「うん・・。なんかね、モモ姫って見れば見るほどかわいいって思う。」
希奈子が素直にこたえるとライラックがあごをなでながら言った。
「ま!モモ姫の顔はあいきょうがあるからな!」
そう言って笑うライラックに希奈子も笑いながらうなずいた。
ちょうど水晶林をぬけて東亭につづく一本道にさしかかったとき。
ライラックが立ち止まるとむねポケットからなにかをとりだした。
「ざんねん。」
「え?」
希奈子も立ち止まる。
「もう、時間だ。」
ライラックが希奈子に猫の形をした懐中時計を見せた。
針はもう少しで十二時をさす。
「そろそろもどらないと終電に間に合わないぞ。」
「東亭まであとすこしだったのに・・。」
希奈子がしょんぼりと東亭へつづく道の先を見つめた。
道の両わきに立っている木が風にふかれて、ざわりとゆれた。
「また今度くればいいさ。」
「うん・・。」
ライラックと希奈子はきた道をひきかえすとアフジスカ駅へといそいだ。
「いつでもこいよ。」
ライラックがぽつりとつぶやいた。
でも、希奈子はシャボン玉をふくことに集中していて
ライラックの声はとどかなかった。
希奈子が、ふうっとシャボン玉をふく。
空にうかぶお月さまのようにまんまるなシャボン玉が
ぷっかりとうかびあがった。
あわい赤色をしたシャボン玉だった。
それを見た希奈子は思わずさけぶ。
「あ!シャボン玉も紅葉してる!」
ライラックもシャボン玉を見上げた。
シャボン玉は風もないのにゆらゆらと空を泳いでいる。
まるで魚が海を泳ぐように。
ぱちん。
シャボン玉がはじけた。
それは帰りの電車への合図。
すこしすると希奈子の足にかすかに振動が伝わってきた。
カタン コトン カタン コトン・・
電車が希奈子の目の前で止まると、ゆっくりとドアが開かれた。
希奈子をのせた電車が走りだす。
遠くなっていくアフジスカ。季節は秋。
木の葉も水晶もシャボン玉も、
そして、希奈子のこころも真っ赤に紅葉していた。
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